祓へ給ひ清め給へ
— 大祓詞より
祓へ給ひ清め給へと申すことを聞こし召し給ひて、
もろもろの禍事罪穢れを祓ひ給ひ清め給ふことを
この言葉は「人は本来、清らかに生まれている」という考えに立っています。
日々の中で重ねてしまった曇りや穢れを払い、もともと持っている清らかさに戻るための言葉です。
けれど、清らかさを取り戻しただけで、立ち止まってしまえば、それで終わりです。
取り戻したものは、使ってこそ、生きる。
祓いとは、使わずにしまっておくものを、もう一度「生かす」ためにある。
そう気づかされる祈りです。
随処に主となれば、立処皆真なり
— 臨済録より
随処に主となれば、立処皆真なり
自分にはまだ環境が整っていない。
自分にはまだ力がない。
そう思って、立ち止まることは多いものです。
でも、この言葉は言います。
「どこであれ、今ここから主(あるじ)として立ちなさい」と。
足りないものを探しに行くのではなく、
「今ここにあるものを使って、始めなさい」
それが、この言葉が示している真実です。
知足者は富者なり
— 法句経より
知足者は富者なり
もっと欲しい、もっと足りない。
そう思い続ける限り、私たちは決して満たされません。
けれど、「これで十分だ」と気づくとき、
本当の豊かさが見えてきます。
そして、その豊かさは、
ただ抱え込むためではなく、
「使って、誰かや何かのために生かすためにある」。
使わなければ、豊かさは豊かさにならない。
この言葉は、そう教えています。
あなたの手にあるものは何か
— 出エジプト記 4章2節
主は彼に言われた、「あなたの手にあるものは何か。」
彼は答えた、「杖です。」
モーセは「自分には何もできない」と言いました。
でも神は「あなたの手にあるものは何か」と問います。
彼は「杖です」と答えた。
その杖こそが、
人々を導き、海を分け、奇跡を起こす「力」となったのです。
何気なく持っているもの、
「こんなもの」と思っているもの。
それこそが、使えば力になる。
この場面は、そのことを教えています。
使いなさい。使わずに終わらせないために。
祓い、目覚め、気づき、豊かさ。
どれも、気づくだけでは終わりません。
どれだけすばらしいものを持っていても、
使わなければ「ない」のと同じ。
いや、むしろ、持っていながら使わないことこそ、
もったいなく、罪深いのかもしれません。
「持っている」と気づくことは、
「いま、それを使い始めること」につながってこそ意味があります。
「探しものは、もう手の中にある。それを使いなさい。」