覚えられない、という壁には名前がある

ちょっと考えてみる
東西交流フォーラム

「覚えられない」と感じる地点には、
実はかなり前から名前がついています。

19世紀末、ドイツの心理学者
ヘルマン・エビングハウス
は、記憶についての実験を行い、
有名な忘却曲線を示しました。

人は、

  • 学んだ直後に急激に忘れ
  • その後、忘却の速度が緩やかになる

つまり、
忘れることは異常ではなく、前提条件だということです。

ここで重要なのは、エビングハウス自身が

記憶は、保持されるために忘却を必要とする

という立場に立っていた点です。

「忘れる=失敗」ではありません。

100時間前後の「壁」はどこから来たのか

学習や技能の分野で、よく言われる「100時間前後の壁」。

これは単一の研究ではなく、
複数の分野で共通して語られてきた経験則です。

たとえば、実務家のあいだでよく引用されるのが、
ジョシュ・カウフマン(『The First 20 Hours』の著者)の考え方です。

彼は、

最初の20時間で基礎はつかめる
しかし、その後しばらくは「伸びていない感覚」が続く

と述べています。

この「伸びていない感覚」が、
多くの人にとって「覚えられない」「向いていない」と誤認されやすい。

けれど実際には、単純な暗記や模倣が通用しなくなる地点に
差しかかっているだけです。

「量」ではなく「構造」に切り替わる地点

もう一人、ここで避けて通れないのが、

アンダース・エリクソンです。

彼は、長年にわたり、

  • 音楽家
  • 医師
  • スポーツ選手
  • チェスプレイヤー

などの専門家を研究し、「熟達」とは何かを分析しました。

有名な「1万時間」という数字は、後に誇張されて広まりましたが、
エリクソン本人は量そのものを重視していません。

彼が一貫して言っているのは、

ある段階を超えると、
情報は“覚える対象”ではなく、
“構造として扱われる”ようになる

という点です。

ここで多くの人が、

  • 覚えにくくなった
  • 前より入らなくなった

と感じます。

しかしそれは、脳が怠けているのではなく、使い方を変えている

実業家の世界でも同じことが言われている

この話は、学術だけではありません。

アメリカの実業家であり投資家の
チャーリー・マンガー
は、学びについてこう語っています。

私は物事を個別に覚えない
いくつかの「思考の枠組み(メンタルモデル)」として扱う

マンガーは、記憶力よりも
忘れても崩れない骨組みを重視しました。

細部は忘れる。だが、判断の枠組みは残す。

これは、長く続く知の扱い方です。

年を取ると覚えられなくなる、は本当か

年齢と記憶の関係についても、
研究ははっきりしています。

  • 新しい情報を
    一時的に保持する力は低下しやすい
  • しかし
    意味づけ・統合・判断はむしろ強化される

つまり、

昔のように覚えられない

という感覚は、

  • 衰え
    ではなく
  • 役割の移行

であることが多い。

私自身も、昔ほど「全部を覚えている」ことはできません。

でもその代わり、

  • 何を見るべきか
  • どこを捨てていいか

は、はっきりしてきました。

忘れることは、能力の低下ではない

むしろ、長く人に関わる仕事では、

  • 忘れられないこと
  • 抱え続けてしまうこと

のほうが、深刻な負担になります。

ある程度の「忘却」は、

  • 自分を守る
  • 判断を保つ
  • 次の学びを可能にする

能動的な働きです。

覚える → 構造化する → 忘れる

多くの分野で共通しているのは、

  • 覚えることは入口
  • 構造が立ち上がると、量は不要になる
  • 忘れることで、次に進める  

という流れです。

「覚えられない」と感じる地点は、終わりではなく、
切り替え地点なのだと思います。

※ここで言う「構造化」は、
きれいに整理することや、頭の中で図を描くこととは少し違います。

たとえば――
若い頃は、電話番号や住所をそのまま覚えていたのに、
今は「スマホに入っている」「あの人の連絡先」という位置で把握している。
数字そのものは出てこなくても、必要なときには辿り着ける。

あるいは、料理でも、レシピを一字一句覚えて作っていた時期を過ぎると、
「これは火を入れすぎないほうがいい」「この食材ならこの順番」
という感覚的な判断で動けるようになる。
分量は忘れていても、失敗はしない。

こうした状態が、構造化が進んだ状態だといえる。

おわりに

覚えることと、忘れること。
どちらが正しいかではありません。

どの段階にいるか。
今、何を担っているか。

それによって、必要な記憶のかたちは変わっていく。

長く学び、長く人に関わるようになると、
そのことが、実感として分かってきます。

今は、そう思っています。

東西交流フォーラム

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