Vol.2 富士山 救助という現実から考える、山との距離

自然
東西交流フォーラム

富士山は、日本で最も知られた山であり、登山道も整備され、情報も豊富だ。
そのため「行けそうに見える山」でもある。

しかし、標高3,776メートルという高さ、急激な気象変化、強風、低体温といった条件は、いまも変わっていない。
山そのものが易しくなったわけではない。
変わったのは、山に近づく側の前提かもしれない。


数字が示している「日常化した救助」

2024年、日本全国で発生した山岳遭難は約2,946件、遭難者数は約3,357人と報告されている。
そのうち富士山では、同年に80人を超える遭難者が確認されているという。

突出して多い数字ではないと言われることもある。
しかし注目すべきなのは、救助が例外ではなく、日常的に発生しているという事実ではないだろうか。
とくに閉山期や季節感の認識の違いが、救助要請という形で表れやすい山であることは否めない。


救助は「自動的に起きる仕組み」ではない

救助は、ボタンを押せば作動する安全装置ではない。
天候を読み、危険を承知で山に入る人がいる。

救助に向かう側にも家族があり、生活があり、人生がある。
これは制度や費用の話以前に、山に入るという行為が、誰かの判断と行動の上に成り立っているという現実の話だと思う。


覚悟をもって山に向かう人たち

本格的な冬山登山や高難度のルートに挑む人たちは、自分がどこに足を踏み入れているのかを理解している。
危険を知らないわけでも、助けられることを前提にしているわけでもない。

山に惹かれ、山に入ることを選び、その結果を引き受ける覚悟をもっている人たちがいる。
そうした人々の存在を否定する必要はないし、今回の問題の中心でもないように感じる。


ずれ始めているのは、どこなのか

問題があるとすれば、
覚悟が言葉になる前に、「最悪の場合は助けてもらえる」という前提だけが先に立ってしまうことだろう。

登山料金や救助費用の有料化によって、入山をためらう人が一定数出る可能性はある。
値段がつくことで、行為の重みを感じる人もいる。
価格が行動の質に影響を与えることは、登山に限らず、どの分野でも起きている現象だ。


野口健氏の言葉が示す現場感覚

登山家の野口健氏は、相次ぐ無謀な救助要請について、次のように述べている。

「無自覚登山者があまりに多い。気を引き締めてもらうためにも救助費用は有料化すべき。何よりも救助隊員は命懸けで救助活動を行っているのだ。」
(2026年1月25日 X投稿)

また別の投稿では、

「有料化すると『救助要請をためらう』との反対意見もあるが、むしろ『少しはためらってくれ』という状況。救助隊も命懸け」

と述べている。

これらは感情論ではなく、現場を知る人の実感として受け取る必要がある言葉だと思う。


世界の山岳救助と「自己責任」のかたち

日本では、公的ヘリによる山岳救助は原則無料とされている。
一方、海外では自己負担が主流だ。

  • スイス:平均約CHF 3,500(約55万円)、条件によっては70〜140万円
  • アメリカ:1時間あたり約1,000〜1,600ドル
  • ネパール(ヒマラヤ):原則自己負担、民間ヘリが中心

富士山のヘリ救助でも、燃料費だけで1時間40〜50万円程度かかるとされる。
海外では「命を懸けた行為」であることが、費用という形でより明確に示されている場合が多い。


山は、判断を突きつけてくる

富士山は、今日もそこにある。
親切でも、冷酷でもない。

ただ条件を提示し、それにどう応じるかを人に委ねている。
救助の数字は、誰かを非難するための材料ではない。
山と人との距離が、少しずつ変わってきているという現実を示しているのだと思う。


Vol.1から続くものとして さいごに

「アルピニスト」と聞くと、ヒマラヤのデスゾーンや、酸素ボンベを使うような極限登攀を思い浮かべる人も多いかもしれない。しかし、日本の山岳遭難の統計を見ると、遭難が多いのは必ずしも高峰や難所ではない。
警察庁の山岳遭難統計では、遭難原因の上位は毎年のように「道迷い」「転倒」「低体温」が占めており、技術的なクライミング事故は一部に過ぎない。

実際、標高1,000メートル未満の山や、登山口から近い里山での遭難は少なくない。天候の急変、ガスによる視界不良、日没の見誤り。
「装備が足りなかった」というよりも、「ここまで危険になるとは思っていなかった」という判断のずれが、結果として救助要請につながるケースが多い。

かつて大学のワンダーフォーゲル部や山岳部で活動していた人たちの中にも、凍傷で指を失った例や、雪庇の踏み抜き、春先の低体温症による重大事故は少なくなかった。
いずれも、特別な高所ではなく、「経験があるから大丈夫だと思われていた山」で起きている。

登りやすい山、なだらかな山、整備された山ほど、人は警戒心を下げやすい。
富士山もまた、その延長線上にある。誰もが名前を知り、登山道も整い、「一度は登ってみたい」と思われる山だからこそ、判断の甘さが集積しやすい。

山は、説明をしてくれない。
危険かどうかを教えてくれるわけでも、条件を緩めてくれるわけでもない。
人がどんな前提で近づいたか、その結果だけを淡々と返してくる。

富士山で繰り返される救助の話は、特別な誰かの問題ではない。
「行けそうに見える山に、私たちはどんな前提で向かっているのか」
その問いそのものを、静かに突きつけているように思う。

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