年賀状じまい、という言葉を耳にするようになって久しい。
コロナ禍をきっかけに、新年会や集まりが中止になり、「集まる」という習慣そのものが、以前ほど当たり前ではなくなった。
若い世代は、そもそもそうした価値観を強く持たないとも言われる。
無理に会わなくてもいい。必要なときに連絡が取れればいい。
それも、時代の流れなのだと思う。
それでも新年になると、不思議と人の顔が浮かぶ。
もう何年も会っていない人。
連絡先が分からなくなってしまった昔の友だち。
年賀状を整理したり、写真を見返したりする中で、懐かしい名前に出会うことがある。
最近、三十年ぶりに連絡が取れた友人がいる。
会えたわけではない。
ただ、声を聞き、言葉を交わしただけだ。
それでも、「ああ、つながっていたんだ」と思えた。
時間を隔てても、関係が完全に失われていなかったことに、静かな安堵があった。
一方で、連絡を取ろうとして、ためらいが生まれることもある。
特別な用事があるわけではない。
ただ近況を話せたら、と思っただけなのに、なぜか一歩が出ない。
その理由は、相手にあるというより、自分の側にあるのかもしれない。
会う、という行為は思っている以上に具体的だ。
時間を合わせ、場所を決め、その人の前に自分の体を運ぶ。
画面越しや文字のやり取りとは違い、逃げ場がない。
だからこそ、会う前に、心が問いかけてくる。
「今の自分で、その人の前に立てるだろうか」と。
体調や状況は、理由にはなる。
私自身、少し前から目のまわりに湿疹が出ていて、
「こんな時期に無理に会わなくてもいいのでは」と思うこともあった。
けれど、それは本質ではなかった。
会う・会わないを分けるのは、ベストなタイミングかどうかではない。
その人と向き合ったとき、
自分が心を閉じたままでいそうか、
それとも、少しでも開けそうか。
扉を開けたら、心も開けたい。
新年は、そんなことを考えさせられる季節なのだと思う。


