【東と西の叡智から】#7沈黙と祈り──ロシア正教会とチベット仏教にみる内なる聖域

東と西の叡智から

はじめに

私たちは「祈り」というと、
声に出して唱える言葉や、形式のある儀式を思い浮かべがちです。

しかし、東西の宗教には「沈黙そのものが祈りである」という
深い教えが静かに受け継がれてきました。

今回は、ロシア正教会とチベット仏教に流れる「沈黙の祈り」に耳を澄ませます。

ロシア正教会の「黙して祈る」伝統

ロシア正教会では、祈りは言葉よりも沈黙に宿るとされてきました。

イコンの前に立ち、十字を切り、
言葉を発さずにただ佇む──
その姿こそが、もっとも深い祈りのかたちと考えられています。

修道士たちは、「内的沈黙(молчание)」を神と向き合う術として重視し、
日常生活においても、沈黙と沈思を祈りの柱としています。

「神は沈黙のうちに語る。だから我々は、沈黙のうちに聞く。」

背景
この精神は、東方教父(とくに聖イグナティオス・ブリャンチャニノフなど)に受け継がれ、
心の祈り(Иисусова молитва)」──
つまり「主イエス・キリストよ、罪ある我を憐れみたまえ」という短い句を、
言葉にせず心の中で唱え続ける「祈りの呼吸」として体系化されました。

それは、神を見つけるための技術ではなく、
神の前に、静かに在ることそのものが祈りになるという教えです。

チベット仏教における「空と沈黙」

チベット仏教でもまた、
祈りは必ずしも言葉でなされるものではありません。

特に瞑想(サマタ)や止観修行では、
言葉や雑念を沈め、内なる沈黙をひたすら観るという時間が重視されます。

また空(シューニャター)という概念は、
すべてのものに実体がないことを意味し、
沈黙のうちにその「在りよう」を感じとることが求められます。

祈るのではなく、祈りの状態そのものになる
──それがチベット仏教における「沈黙の祈り」です。

背景
チベット仏教の修行体系には、数日間、数週間にわたる沈黙の瞑想や山岳籠りがあります。
五体投地やマントラによる動的祈りと対をなすように、
沈黙と空白によってしか開かれない領域が存在するのです。

言葉を越える祈り

ロシア正教会とチベット仏教──
形式も神観も大きく異なる二つの伝統が、
「沈黙の中にしか届かない祈りがある」と教えてくれます。

語りすぎないこと。
求めすぎないこと。
答えを急がないこと。

静かに座り、見つめ、待つ。
その沈黙の時間こそが、
祈りそのものになる瞬間なのかもしれません。

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