はじめに
私たちは「祈り」というと、
声に出して唱える言葉や、形式のある儀式を思い浮かべがちです。
しかし、東西の宗教には「沈黙そのものが祈りである」という
深い教えが静かに受け継がれてきました。
今回は、ロシア正教会とチベット仏教に流れる「沈黙の祈り」に耳を澄ませます。
ロシア正教会の「黙して祈る」伝統
ロシア正教会では、祈りは言葉よりも沈黙に宿るとされてきました。
イコンの前に立ち、十字を切り、
言葉を発さずにただ佇む──
その姿こそが、もっとも深い祈りのかたちと考えられています。
修道士たちは、「内的沈黙(молчание)」を神と向き合う術として重視し、
日常生活においても、沈黙と沈思を祈りの柱としています。
「神は沈黙のうちに語る。だから我々は、沈黙のうちに聞く。」
▶ 背景
この精神は、東方教父(とくに聖イグナティオス・ブリャンチャニノフなど)に受け継がれ、
「心の祈り(Иисусова молитва)」──
つまり「主イエス・キリストよ、罪ある我を憐れみたまえ」という短い句を、
言葉にせず心の中で唱え続ける「祈りの呼吸」として体系化されました。
それは、神を見つけるための技術ではなく、
神の前に、静かに在ることそのものが祈りになるという教えです。
チベット仏教における「空と沈黙」
チベット仏教でもまた、
祈りは必ずしも言葉でなされるものではありません。
特に瞑想(サマタ)や止観修行では、
言葉や雑念を沈め、内なる沈黙をひたすら観るという時間が重視されます。
また空(シューニャター)という概念は、
すべてのものに実体がないことを意味し、
沈黙のうちにその「在りよう」を感じとることが求められます。
祈るのではなく、祈りの状態そのものになる
──それがチベット仏教における「沈黙の祈り」です。
▶ 背景
チベット仏教の修行体系には、数日間、数週間にわたる沈黙の瞑想や山岳籠りがあります。
五体投地やマントラによる動的祈りと対をなすように、
沈黙と空白によってしか開かれない領域が存在するのです。
言葉を越える祈り
ロシア正教会とチベット仏教──
形式も神観も大きく異なる二つの伝統が、
「沈黙の中にしか届かない祈りがある」と教えてくれます。
語りすぎないこと。
求めすぎないこと。
答えを急がないこと。
静かに座り、見つめ、待つ。
その沈黙の時間こそが、
祈りそのものになる瞬間なのかもしれません。



