【東と西の叡智から】#6浄めと禊──イスラム教と神道にみる、身体を通して魂を整える道

東と西の叡智から

このシリーズ【東と西の叡智から】では、東洋と西洋、異なる文化圏に流れる智慧をたずねながら、今を生きる私たちに静かな光を届けることを目指しています。

第6回のテーマは「浄めと禊」。 祈りに先立つこの行為は、ただの習慣ではなく、「自分を調える」ための深い精神的営みです。

今回は、まず神道における禊(みそぎ)に焦点を当て、つづいてイスラム教の浄め(ウドゥー、グスル)をたずねながら、「身体を通して魂を整える」意味について考えてみます。

1.神道の禊──「鎮まる」ことから始まる祈り

神道における禊(みそぎ)とは、ただ体を清めるということではなく、「鎮まる」こと、つまり心を静けさのなかに戻していくことを意味します。

それは、たとえば山や川といった自然の中に身を置いたとき、言葉を超えて「何か大きなものに包まれている」と感じるような感覚に近いのかもしれません。

古代の神話では、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から戻ったのち、穢れを祓うために川で身を清めたと語られています。

「そこで、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で御身を清められた」

このとき、禊を通して多くの神々が生まれたという物語は、「浄め」とは単なる“削ぎ落とし”ではなく、新たな創造をもたらす働きであることを示唆しています。

また、伊勢神宮の参拝前に手水舎で手を清める所作や、五十鈴川で手をひたす習わしも、 「神に近づく」ためというより、「自らを鎮め、整える」ための営みとして捉えられます。

禊とは、自己の内にある澱(おり)を静かに沈め、世界との調和を取り戻すための入り口──つまり「鎮魂(ちんこん)」の実践なのです。

2.イスラムの浄め──「神の前に立つための準備」

イスラム教では、礼拝(サラート)の前に、必ず「ウドゥー(小浄)」という洗浄の儀式を行います。顔、手、足などを順に洗い流すこの行為は、見た目の清潔さを超えて、「神の前に立つ心構え」を整えるものです。

また、精神的な再出発や大きな節目の際には、「グスル(大浄)」という全身を清める儀式が行われます。

クルアーンにはこう記されています:

「まことにアッラーは、清められる者たちを愛される」 (2章222節)

ここでいう“清め”とは、衛生というより「神との距離を意識する」こと。 つまり、自分の内側を整え、忘れていた謙虚さと沈黙を取り戻す営みなのです。

ウドゥーは一日に何度も繰り返されることで、人間の「忘れやすさ」を補い、「祈りの回路」を何度でも開くための律動となっています。

3.浄めは「整えること」──祈りの前にある時間

禊もウドゥーも、「祈り」に先立つ準備でありながら、それ自体がすでに祈りの一部です。

両者に共通しているのは、 「私は神に願う前に、自分の姿勢をただす」 という慎みの心。

その心が、「祈ること」と「生きること」をつなぎます。

浄めとは、神に近づくためというよりも、 神の前に立つ自分を整えること。 神に問うのではなく、「自分自身に向き直る時間」でもあります。

4.禊に立ち返る──日常に取り戻す静けさ

現代の私たちは、情報に晒され、外にばかり意識を向けています。 けれど、神道の禊に流れる感覚は、 本来、日々の中にこそ息づくべきものでしょう。

雨にぬれたとき、思わず空を見上げる。 川の音に立ち止まり、ただ黙って耳を澄ます。

それらは、失われつつある“禊の時間”かもしれません。

神道には、「清めとは、自らが清まることによって、世界に調和をもたらす」という考え方があります。

「かしこみ、かしこみ申す」という祝詞の言葉には、 「慎み」と「敬い」が重ねられており、 祈りの前に、まず己を整えることの大切さが込められています。

この静かな日本の祈りの作法が、私たちの日常に再び息を吹き返すとき、 「浄め」とは、きっと今よりもっと身近で、深い意味を持つようになるでしょう。

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