【東と西の叡智から】#5祈るということ──イスラム教と神道における祈りの姿

東と西の叡智から
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1.はじめに

このシリーズ【東と西の叡智から】では、東洋と西洋、異なる文化圏に流れる智慧をたずねながら、今を生きる私たちに静かな光を届けることを目指しています。

第5回のテーマは「祈り」。
それは、言葉の前にある行為であり、人が人としての輪郭を取り戻す営みでもあります。

今回は、日本人にとってなじみの深い神道、そして誤解や先入観の多いイスラム教、それぞれの祈りの本質をたずねながら、私たち自身の祈りについて考えてみたいと思います。

2.神道の叡智──「祈りは生き方である」

神道において祈りは、形式や義務ではなく、「生き方」そのものです。

朝に神棚に手を合わせる。道端の石にふと頭を垂れる。いただきますと口にする。こうした何気ない所作に、神々への感謝とつながりが息づいています。

それは、「人間は自然や他者の中に生かされている存在である」という感覚の表れであり、祈りとは、神に願うことではなく、「いまここにある命」に敬意を向ける行為なのです。

古来の祝詞には、「かむながらたまちはへませ(神とともに在り、生命が栄えますように)」という言葉があります。
これは願望ではなく、神とともに生きることそのものへの賛歌であり、祈りの精神が「共にある」という在り方に根ざしていることを示しています。

神道の祈りにおいて重要なのは、“まこと”を尽くすこと。真摯であること。これが、祝詞にも通じる精神であり、私たちが本来持っていた「生きる姿勢」とも言えるでしょう。

つまり神道の祈りは、「自分という個の輪郭を薄め、世界に調和する」感覚であり、祈ることは「正しくある」ことの確認なのです。

この意味において、神道は日本人の心の深いところで、祈りを“無意識の習慣”として息づかせてきたといえます。

2.イスラム教の祈り──「人間の弱さを受け入れる律動」

イスラム教における祈り(サラート)は、よく「五回の礼拝」として知られています。

しかし、そこに込められた精神は、単なるルールの遵守ではなく、「人は本質的に弱い存在であり、その弱さを認め、神にゆだねる」ことにあります。

クルアーンには次のように記されています:

「人間は忘れやすいもの。だからこそ、わたしはあなたに礼拝を命じた。」(クルアーン20章14節ほか参照)

祈りとは、神のためではなく、忘れやすい人間が、自らを立て直すためのリズムなのです。

サラートの前には、必ず身体と心を清める「ウドゥー(小浄)」を行います。そして、メッカの方向へ身体を向け、大地に額をつけるようにして祈ります。

この祈りの姿勢は、何かを願うためではなく、「自らの傲慢を脱ぎ捨て、いまここに在ることを認める」という、極めて人間的な態度そのものです。

祈りのたびに、自我を沈め、自らの限界を思い出す。これは、弱さを恥じるのではなく、弱さを通して謙虚に世界と向き合おうとする行為。

つまり、イスラムの祈りは「神に近づく」のではなく、「人としての輪郭を取り戻す」ための時間なのです。

3.祈りとは「問うことをやめない姿勢」

神道においても、イスラムにおいても、祈りとは「お願い」ではありません。

神にすがるものではなく、神の前に立つ覚悟であり、問い続ける姿勢です。

形式の違いを越えて、両者に共通しているのは、
「私という存在は、いま何に支えられているのか」という問いへの静かなまなざしです。

神道の祝詞に繰り返される「まこと」「かしこみ」などの言葉も、ただお願いをするのではなく、「己を正して、世界に向かい直す」という精神の現れです。

問いのままで立ち続けるという姿勢こそが、祈りの本質なのかもしれません。

祈りとは、語ることよりも「聴くこと」、沈黙の中にとどまる意志。
そして「人知を越えた存在と、ともに在る」という深い感受性にほかなりません。

4.祈りを取り戻すために

現代の私たちは、言葉に頼り、結果を求め、意味を即座に明らかにしたがります。

けれど、祈りはいつも「意味の前にあるもの」なのです。

誰かの幸せを願って、ただ静かに手を合わせる。
泣きたいときに、空を見上げて目を閉じる。

そうした無言の時間こそ、私たちがいま最も失いつつある祈りの形ではないでしょうか。

形式を超え、言葉を越え、文化を越えて。祈りとは、「私を越えたものに、私を委ねる」行為。

神道にも、イスラムにも、そしてきっと私たちの中にも、その静かな回路はまだ生きているはずです。

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