東京の守護神 その歴史
正式名称 神田神社 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です。神田大明神には、平将門命、大己貴命、少彦名命、祀られており、縁結びや家内安全、商売繁盛などのご利益があるといわれています。
平将門公は承平・天慶年間、武士の先駆けとして関東の政治改革に取り組み、民衆を守りました。
ここからは念の為、神田大明神様のHPからそのまま引用させていただくことにして、その歴史をみていきましょう。
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。
明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。
大正から現代に至る歩み。
この後、江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、多くの方々の御心で早い時期に復興が計画されたようです。昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。
しかし、また、昭和初期、東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。境内も多く損傷したようですが、耐火構造であった社殿だけはわずかな損傷のみで戦災を耐えぬいたそうです。
戦後は、次々と境内の建造物が再建されて、昭和51年には江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。現在、神田明神様は目を見張るほどの楽しく美しいとても素敵な観光スポットとしても人気があります。
神田明神と成田山新勝寺には、どのような関係があるの?
神田明神と成田山新勝寺の関係について少し記述しますと、近しい神社の氏子さんたちは成田山を参詣しないと云う伝説があります。将門を苦しめる事となる為、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こると伝えられています。
成田山新勝寺は真言宗智山派の大本山で、全国各地の不動尊信仰の総府です。商売繁昌、開運成就、火伏せのご利益があると伝えられており、人々に古くから親しまれています。
平将門のゆかりの神社
平将門のゆかりの神社をご紹介します。
- 築土神社(飯田橋)江戸の古社。武道の神様として知られています。日本武道館の氏神様でもあります。
- 将門塚(大手町)平将門公の首を供養しています。
- 御所神社(茨城県八千代町仁江戸) 平将門公をご祭神として祀っている神社。
- 将門神社(柏市)平将門公をご祭神とした全国でも珍しい神社です。
- 将門神社(奥多摩)ご祭神は平将門公と八千矛神です。
- 國王神社(坂東市) 平将門の三女・如蔵尼が建立した神社です。
- 京都神田明神(下京区)、御首神社(岐阜県大垣市)等、将門公供養の神社がいくつかあります。
ぜひお参りくださいませ。
まとめ
明治期からの皇国史観の影響を受けてきた将門公。現世に至るまで大きな影響力をもっていらっしゃいました。私も丁重にお参りを重ねていきたいと思います。
下記の画像は神田明神様の満願成就のお守りです。
9月にお参りに伺った際には、稲穂が添えられたお守りでした。
神田明神様のお守りでは、「勝守」がもっとも歴史が古く、広く知られています。
「勝守」で商売・スポーツ・勝負運向上にご利益があります。
皆様もぜひ足を運んで、そのパワーを体と心、魂で感じてみてください。
最後までお読みくださりありがとうございました。
